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 手折る夢見て注ぐ日々よ

 千歳は己が(さが)の自由さを知っている。興味関心の赴くままに手を出し、気が向いた場所へ足を向ける。何物にも縛られない風。空を征くもの。
 アルファの傲慢さと言われればそうかと頷くだろう。アルファという性質がゆえではなく、千歳の本質を後押しする追い風として。バース性という理由をつければ周囲は納得してくれるのだから安いものだ。千歳千里そのものを理解しろとは言わない。同じ空を駆ける者の称号を与えられた片割れが、最初から見据えてくれていた。
 だから、風を留められるのは、最初から桔平しかいなかったのだ。
 不思議なことに、それに気づいていないのもまた、当の本人だけだった。

 ことり、と気絶するように寝落ちた桔平の額に手を当てる。額どころか目元まで覆ってしまったが、瞼の下の柔い感触さえも燃えるように熱かった。許されるならば布団ごと抱え上げて病院に駆け込んだだろう。
 許さないのは桔平ではない。
 オメガに羽化するために眠る己がつがいを、誰の目にも見せてたまるかと唸る腹の奥の獣だ。誰の意図も気にしない気儘さだけをアルファの証のように言われる千歳だが、誰より自分が理解している。つがいに執着するからこそのアルファ。剝き出しにするべき相手以外に、アルファの獣性を見せてなんとする。
 弱さを隠すこともまた誇りであると立つ獅子が、これほどに無防備なさまを見せてくれている事実が、なによりも胸をくすぐった。
「きっぺー……」
 掠れた声が枕元に落ちた。
 千歳のアルファは凶暴な支配欲や征服欲が強いタイプではなく、さりとて庇護欲に割り振られているわけではない。大きな体躯で抱き込んでしまいたい欲求はあるが、なによりも桔平の凛とした強さを愛している。囲われて守られる雌ではなく、対等に向き合い背中を預けられる相手だからこそつがいたいのだ。
 それでも、本能は衝動を焼き付ける。少しずつ強くなる甘い香りは耐え難い誘惑だった。
「いけん、こぎゃんこつばしとる場合やなか」
 ばちんと両手で頬を張り、千歳は気合を入れなおした。憎からず思っていてくれるだろう確信はあったとはいえ、事後承諾に近い形でオメガに変えた。それは紛れもない、千歳のわがままだ。
 これから桔平はひとり、体を作り替える熱と痛みに耐えることになる。ばかなやつだと言われたのは諦念であって、つがいになる許可を得たわけじゃない。本能は既に知っていても、桔平はやっと千歳の気持ちに目を向けたばかりなのだ。
「……杏ちゃんに聞いた方がよかやろうな」
 まずは、できる限りの看病を。それが千歳の成すべきことだった。

 久方ぶりの電話を、桔平の妹は朗らかに受け入れてくれた。熱を出して寝込んでいると言えばひどく心配していたが、千歳が世話をするからと押し切った。桔平は兄としての矜持が強い。トイレに立つにも千歳の支えがいるのだと──実際は意識さえなかったが──言えば、妹に縋るより気の置けない昔馴染みの手を借りるほうを選ぶだろうと納得してくれた。
 体を蒸しタオルで拭くこと。汗をかいたら服を着替えさせること。体を起こしていられないなら、吸い飲みで水分を摂らせること。薬の前に何かを腹に入れること。ゼリー飲料やレトルトのおかゆがいい。まともに看病をしたこともない千歳をよく知っている杏は、ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。
 酷い風邪ということになっているので、内科を受診して薬をもらってきていると嘘をついたのは必要悪だと見逃してもらいたい。
「ありがとう、助かったばい」
『ううん、お兄ちゃん意地張っちゃうし、私も体力的に厳しいから。千歳さんがいてくれてよかった。風邪うつらないようにだけ気を付けてね』
「おん」
 よろしくお願いします、と神妙な声で兄を託されたことだけは胸が痛んだ。
 千歳にとって桔平は他の誰に渡すわけにも、自分の手を離れていくことも許せない唯一だ。後悔はしていない。桔平が万が一にも他の相手を見定める前に搔っ攫ってしまわなければならなかった。
 杏に、桔平の家族に、彼を大切に思う人たちに詰られても、それだけは譲れない。そんな人たちではないと知っていても。いずれ桔平を本当に貰うことになったら地に頭を擦り付けてでも許しを得る。覚悟を改めて胸に抱いて、千歳はコンビニに買い物に出た。

 昏々と眠りながらも、桔平はうなじに何かが触れるのを嫌がった。苦し気に呻きながら、熱に痛みに身をよじる。身じろいだことで、枕や寝巻の襟元が触れるだけで顔をしかめるから、そのたびに千歳は抱き起こして整えてやった。
 自分の食事は数日分をまとめて買いこみ、ごみ箱を横に持ってきておざなりに済ませる。もとよりさして執着がない身だ。今の千歳に、桔平よりも優先すべきものなどなかった。
 暖房を掛けて部屋を適温に保ち、折を見て換気も忘れない。額に汗が浮かべば拭い、服が湿ったようであれば着替えさせた。体力をできる限り消耗させたくなくて、体を拭くのは二日に一度に留める。
 くちびるが乾いた様子であれば水を含ませ、虚ろな目が開いたらゼリー飲料を飲ませた。トイレにだけは朦朧としながら意地でも這っていこうとするので、便座のところまでは抱えていった。さすが桔平ばい、と誇り高き背に乙女のごとくときめく胸を押さえたことは言えまい。
「ぐ……ぅ…っ」
 桔平が苦しんでいる。突きつけられる事実が罪悪感となって刺してくるのに、仄暗い水底からあぶくのように浮かび上がる、よろこびにも似た色がある。桔平は千歳の為に体を変え、苦しんでいるのだ。どろりと粘つく蜜の味だった。
 まっすぐな桔平には到底見せたくない自分を、千歳はきちんと見据えていた。さもなくば二度と胸を張って前に立つことなどできやしない。
「桔平、水飲まするぞ」
 はく、と何かを求めるように開かれたくちびるに、一言断ってから吸い飲みをあてがう。噎せないよう慎重に水を注ぐ。喉が小さく動くたびに、千歳は目を細めた。
 生きるためのすべてを委ねられ、細やかに心を砕いて世話をする。ほかの誰相手でも、下手をすれば自分自身でさえ億劫になる全てが、驚くほどに胸を満たした。桔平だけだ。この男だけが、千歳のアルファを満たすことができる。
 自然界で多くの雄がそうするように、つがいとなるべき相手にせっせと求愛の餌を運び、巣を整え、行動で尽くして選んでもらう。最後の最後で組み敷くことは譲れなくても、もともと千歳は桔平の尻に敷かれる方が性に合っている。オメガに貢ぐアルファは世間の波からはずれているとしても、自分たちにはこの上なくしっくりくるだろう。
「やけん、俺ば選んでくれ」
 選択肢など本当は与える気もないくせに────眠り続ける白い顔に、千歳は刷り込むように願いを落としていた。

(22.03.21)


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